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2023年春分によせて。
皆様こんにちは。
今日は🌸春分🌸です。
占星術では、東洋系でも西洋系でも春分は重視します。
そのことからも「占星術は統計学ではなく 自然(宇宙)科学である」ことが理解できます。
統計学は「あったこと(過去の結果)」が軸、占星術は「あること(常に今の氣)」が軸ですから、両者は全く違うものです。
宇宙の影響をストレートに受けている地球。
その地球では、自然というものが織り成す美しい生命の環があります。
留まることのないその環を構成する1つの要素として、氣を放ち合い存在しているのが人間です。
一人の人間が放つ氣の影響は軽視できません。
あなたというたった一人でも心が健やかで無ければ、生命の環は濁り、自然は濁り、宇宙も濁るということです。
その濁りがまた地球へ、自然へ、人間へと巡り返ってきます。
今年の春分を宇宙元年と呼ぶ人もあります。
どうかあなたの心が健やかでありますように。
その人を悼む。
以前、「孤独死」と「ひとり死」は違う、という記事を書いた。
その内容をそのまま表すようなことがあった。
私はその人と、パートナーの仕事絡みで20年ちょっと前に知り合った。
初対面の人がほぼ100%引くほど(事実 引く)、モテない要素を全て集めて膨らませたような見た目とは裏腹に(……酷い言いぐさだとは自分でも思うが他に表現が見当たらない)、とても声が男前で話し方も品の良い人だった。
超が付く「ぼんぼん」だったからかもしれない。
一般的な人がイメージする「ぼんぼん」とは次元の違うレベルの「ぼんぼん」だった。
とは言え、誠に失礼ながら私にとっての第一印象は「こりゃ……相当 虐げられてきたな……」だった。
闇が深すぎる……。
そしてその印象は正確だったことが、後にその人の後輩からの話によって判明したのだが……。
格闘技ヲタクで三國志ヲタク。
その他にも、ありとあらゆるジャンルのどんなネタにも詳しく話すことが出来るその人は、人生そのものがヲタクであり、およそ社会性というものは持ち合わせて居なかった。
定職に就いたこともない。
バイトすら2週間と持たない。
けれどもその人は所謂インテリで、私もパートナーもその人と会話をしていて退屈したことがなく、むしろ非常に面白く、深い読みや豊かな感性の持ち主だった。
当時は毎日のように夜遅くまでその人とパートナーと私の3人で喋っていた。
その人でなければ、あれほど知的好奇心が刺激されることはなかったと思う。
色んな意味で、その人は一度見たら忘れないインパクトを与えてきた。
笑っていても、瞳や表情はいつも哀しそうで、深い憂いと孤独を湛えていた。
その人は20数年間、パートナーの仕事場にちょくちょく顔を出してくれていたらしい。
「何しとんでっか。身体動かさなあきまへんで。出て来なはれ」と、
パートナーが呼び出すからなのだが。
パートナーにとっては貴重な話し相手だった。
ところが1ヶ月ほど前から電話に出なくなったらしい。
その人にとっては携帯電話が唯一社会との繋がりを保つ命綱であり、二台も所有していたらしいが、いつも折り返し掛けてくるのに出なくなったらしい。
「あの人、ほんまにヤバいんちゃうか……」とパートナーは私に言った。
いつ死んでもおかしくないほどの超肥満だったからだ。
パートナー曰く、明らかに心臓に負担がかかっているようで、数百メートル歩くのさえ困難になっていたとのこと。
先週末、パートナーがその人にいつものように電話した。
しかし携帯電話が二台とも「現在使われておりません」とアナウンスが流れた。
嫌な予感がしてその人を知る人に全てに連絡してみたが、全員が「私らも連絡付かないんです。どこに住んでるかも分からんのです。こっちでも手を尽くしてみます」と。
十中八九、その人はもう居ないであろうことを皆が感じていた。
そして今日、それが確定した。
今月の初め頃だったらしい。
独り身のその人には、一般的な家庭では考えられない数の継母と、腹違いのきょうだいたちが二、三十人居て、その人は末っ子だった。
親族が何十人も居ても、その人に居場所はなかった。
親族たちからも虐げられていたからだ。
酷い虐めを受けていたため、学校にも居場所はなかった。
2つの格闘技ジムが唯一の居場所だった。
その一つがパートナーの営むジムだった。
パートナーが言った。
「あの人、やっと親族から解放されたんやろ」
死因は今のところ不明だが、そんなことはどうでもいい。
何十人も居た親族は、皆がその人にとって敵であり呪縛以外の何物でもなかったのだから。
でも、
その人を知るたくさんの他人は、パートナーや私を含め、心からその人悼み、唯一無二の魅力を備えた人だったことを知っている。
末っ子のその人をゴミのように扱った親族より、多くの他人の方がよほどその人を愛し、慕っていた。
どんな最期だったかは分からない。
けれども、これだけは言える。
Kさん、
あなたは孤独死じゃない。
こんなにも悼んでいる私たちが居るのだから。
全力でヲタクを生きたあなたへ。
合掌。
加害者をなくすには。
皆様こんにちは。
毎日の酷暑ですが、戸外でもマスクで鼻まで覆っている人達が殆んどです。
しかも高齢者の方などでは二重に重ねて着用している姿も。
危ないです🥵
外しましょう。
氣になるなら、自分が喋る時に口元をハンカチ等で唾が飛ばないように氣を付ければ良いことです。
でも多くの人は、
「感染(うつ)されたくない」
という被害者意識で「外せなくなっている」のが真実ではありませんか?
よく考えてみましょう。
毎年 熱中症による搬送がどれだけ多いか。
ちなみに私は戸外に出たら即座にマスクを外します。
連日35℃前後の酷暑のなか、ハァハァ🥵言いながらマスクで鼻まで覆っている事が、明らかに「病的でおかしいこと」に氣付きましょうね。
「マスク外すの怖い病」にも象徴されていますが、潜在的被害者意識が非常に強いことを、私はとても問題視しています。
潜在的に被害者意識を抱えているということは、潜在的な加害者を自ら作っていることにほかなりません。
加害者を作らないことは即ち、被害者を産まない事になります。
被害者が存在するには加害者が存在しており、潜在的被害者意識は潜在的加害者意識をもたらします。
両者な必ず対の関係です。
ですから
潜在的被害者意識と決別する事が最も重要で
且つ根本的な解決になると私は思っています。
自己の意識が加害者の存在を生んでいる事に氣付く必要があります。
「マスク外すの怖い病」は潜在的被害者意識の表れであり、「ノーマスクの人を自動的に加害者として見なす」潜在的攻撃性を蔓延させています。
これはとても恐ろしいことです。
今とこれからのこどもたちが
人を愛し助け合う、
優しい社会に生きられるよう、
どうか自己の中にある愛と慈悲の種を芽吹かせ、育てて下さい。
お願いします。